田中は厚さ十センチ、重さ二十キロのガラス板「月曜八時、満員電車の息」を両手で抱え、公開の会場へ運び込んだ。編集長の佐藤は白衣のポケットから赤ペンを出し、「欠陥品だ」と呟きながら発売の決断印を押した。ガラスの内側には、見えないはずの吐息が緑色の菌糸のように這い、来場者の肺を遠くから刺激する。空調の効いたホールに、粘っこい鉄の匂いが充満し始める。
翌朝、予想外の反響が届いた。購入者はガラス板を枕元に置かず、口を密着させて中身を吸い込んでいた。「火曜、会議室の重圧」を吸った課長は机に突っ伏し、「日曜、公園の芝生」を吸った子供は泣き止んだ。だが、ガラスが空になると、外の空気がラベル通りに書き換わる変化が起きた。「台風の夜」の板が空っぽになった瞬間、晴天の空が悲鳴を上げて崩れ落ちた。
最終頁「田中の最期の一息」だけが、倉庫の奥で未開封のまま輝いていた。田中はハンマーを振り上げたが、ガラスは割れず、代わりに彼の指先が透明になっていく。ラベルの文字が「田中の肺胞、残量ゼロ」へと自動書換えされる。慌てて蓋を開けると、中身は真空だった。外では今、誰もが一斉に息を詰めて、次の頁を待っている。
#ショートショート
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